「五年後じゃなくて三年後でも、いっそ一年後でもいいんだけど、もしどこかで再会したら、彼女はまるで違っちゃってるわね、きっと。
~(中略)~
何て言うのかしら、いま確かにあそこにいる彼女は、一年後にはこの世のどこにもいないんだなあって」
~(中略)~
モネはたびたび「瞬間性」に言及している。モネの言う「瞬間性」は、周囲を包むもの=l'envelopeに、画家もまた包まれている、という意味なのだ。 本文より
江國さんの小説に起承転結は、ない。
いや、落ち着くべきところで終わっているような気はしなくもないのだが、娯楽小説のようにくっきりとしたオチはない。
代わりに、小説世界で生きる人々の、その時にしか現れない感情や表情や仕草がきちんと存在している。
作ったものではなく、すっきりと、過不足なく。
モネの「瞬間性」というもの、なのかもしれない。
これは、分かる人には分かるし、分からない人は、きっと一生分からない。
上記のセリフは主人公のひとり柊子のものだが、言われた彼女の母親・桐子は何を言っているのかすら分からなかった。
血が繋がっている親子でも、そうなのだ。
血の繋がりのない夫婦で、分かり合えないことがあるなんて、当たり前だ。
柊子の夫は『あなたがよその女と寝ると私は悲しいのよ』というセリフを理解できない。
冷淡な目で彼女を見つめて、こういうのだ。
「なぜ?」
と。
けれど夫は彼女を愛していないわけではなく、むしろ、この上ないほど愛している。
そんな彼女にしたって、自分がたったひとりの男、夫だけを愛するようになるなんて、思ってもみなかった出来事なのだ。
人は人を所有できるが、独占はできない。(中略)
どうしても独占したいと望むなら、望まないものも含めたすべてを-たとえばガールフレンドたちごと夫を-所有する以外にない。
それが彼女の結論であり、数々の情事で学んだことだ。
すべてを所有。それは『すべてを受け入れる』とか『すべてを許す』とか、愛について語っている言葉の響きにも似ている。
そしてそれは、途方もないことに思える。銀河の果てまで旅をしろ、と言われたような。
1. 無題
。
この夫は理解できないけどね(ワラ